今週発売を迎えたEXILE ATSUSHI & 久石 譲『懺悔』についてATSUSHI本人からのメッセージが届きました!
懺悔について ~EXILE ATSUSHI Message~
いつも応援していただいている皆様、本当にありがとうございます。
このたび、素晴らしい音楽家である久石譲さんとのコラボレーションが実現した事で、自分的にも、ものすごく深い想いの詰まった作品が"懺悔"が完成いたしました。
曲の特徴や雰囲気を出すために、所々、難しい言葉や昔の言葉を少し部分的に使っている箇所もありますので、もし聴いていただく皆様に分かりにくかったらと思い、余計なお世話ではありますが、曲のガイド的な意味を込めた文章を作らせていただいたので、興味のある方は是非読んでいただけたら嬉しく思います。
~『懺悔』EXILE ATSUSHI楽曲解説~
"懺悔"(ざんげ)とは、ご存知の通り、自分の犯した罪を悔い改め、神様や仏様にそれを正直に打ち明け、反省することを意味します。
今回、なぜこんな言葉を使うことになったのか、それにはこんな想いがありました。
日本テレビ開局60周年の特別企画として、特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」が開催され、そこで"洛中洛外図屏風 舟木本"という、約400年前に作られたとされる屏風(びょうぶ)が公開されることになりました。
その特別展のテーマ曲を、久石譲さんと一緒に制作するというお話をいただき、こんな光栄なことはないと、ひときわ感動し、恐縮しながらも、今回のお仕事を受けさせていただきました。
そして初めて、久石譲さんとお会いさせていただき、感動し、あらためて尊敬し、せっかく一緒に何かを作るんだから、一緒にその"洛中洛外図屏風 舟木本"を観に行きましょうと約束をさせていただきました。
そして数日後、上野の東京国立博物館で久石譲さんと二度目の再会。
国の重要文化財である"洛中洛外図屏風 舟木本"を、手で触れられるくらいの、本当に間近な距離で拝見する事ができました。
正直、本物を目の前にするまで、どんな意味があって、何がすごいのかなんてまったく分かりませんでした。
でも本物を目の前にした時、何かただならぬ、存在感みたいなものを感じました。
全長7メートルに渡る、壁一面に広げられていた屏風(びょうぶ)は、一言で美しいというよりも、繊細で細かく、その世界に引き込まれるといったらいいのでしょうか。そんな感じを受けました。
そして、その風俗画が書かれた時代にタイムスリップするかのように、見れば見るほど、その屏風の世界の中に引き込まれていきました。
そして、ガイドをして頂いた東京国立博物館の松嶋先生の説明を聞きながら、質問をしつつ見ていくと、たくさんの事に気付かされました。
まず右側に豊臣家、左側に徳川家が描いてあって、日本では昔から歌舞伎の世界でも、舞台に向かって右側を上手(かみて)と呼び、明らかに豊臣家側の人間が描いたものだと推測できるというのです。もしくは、豊臣家よりの人間の発注を受けて、描いたとされているらしく、それだけでも、ものすごい日本の芸術美の奥ゆかしさ、深さ、素晴らしさを感じました。しかし、感動はそこでは終わりませんでした。一つ一つの絵に、すべて意味があり、当時の人々の生活模様が、現代の人間が見ても分かるほどに、細かく描写されていました。
季節は右から左に、春から冬に移り変わっていて、それを金の雲みたいなものが、時間軸や位置関係をワザと曖昧にしていたりと、それはそれは、知れば知るほど興味深いものばかりでした。
お花見で酔っ払いながら帰る幸せそうな光景が描かれていたり、祭りで勢いよく神輿を担ぐ男たちが描かれていたり、子供に手を引かれるのに、不倫しに行こうとする女性の絵が描かれていたり。(笑)本来、ケンカがあれば、止めるはずのお坊さんたちが、ケンカにヤジを飛ばし、はやしたてている場面が描かれていたり、町の呉服屋さん(今の洋服屋さん)が描かれていたり…。
その中で一つ、最も印象深いものがありました。
それは、橋の両サイドに牛馬止めという柵が描かれていて、その柵によって本来なら入る事のできない橋の上に、なぜか牛がいるという幻想的な風景で、その橋から、川を淋しそうに眺める家族の姿が描かれています。これは、空想の世界が描かれているという説があるらしく、その家族の絵は、この絵の作者が、命を亡くした自分の家族を描いているという説があるとの事でした。
この屏風も、偉い方か誰かが、何かを意図して発注したものであり、そこには意味があり、想いがある。逆に言えば、想いや意図なくして芸術はなにも生まれないという事に気づかされました。
それが懺悔の歌の始まりの歌詞です。
そうやって先人の方々が、芸術や宗教、武道などの道の付くものなど、様々なものに想いを託して、残してくれているのではないかと思ったのです。
そして、現代に失いかけている大切なモノを気付かせるヒントを残してくれているのではないかと思ったのです。
便利になった世の中で、心や愛を失ってしまった人が増えているような感覚に襲われる事があります。それは、僕たちや先人の方々の魂さえも腐らせると思ったのです。そんな中でも、いつか人間は必ず気づくはずだから、どうかかすかな光を照らし続けてほしいという希望を込めています。
サビの部分で
響き渡る篳篥(ひちりき)のしらべたち
遥か彼方 消えてしまったのだろうか…
とあります。
洛中洛外図屏風をみて、どこかから、篳篥の音が聴こえてくるようでした。篳篥とは、日本古来から伝わる雅楽の楽器の、いわゆる笛の一種ですが、昔、音楽を奏でた人々の想い、例えば平和への願いは、どこかに消えていってしまったのだろうかと、儚い想いをつづらせていただきました。
そして二番では、時は無情に過ぎてゆくけど、それは決して繰り返しではなく、バネの様に、螺旋状(らせんじょう)に過ぎていくことの美しさを表現しています。
同じ瞬間は二度と訪れないからこそ、瞬間、瞬間が美しいんだと思いました。
そして、迫り来る終わりをただ静かに迎えようと…
という部分がありますが、死に向かっているのは人の定めだと分かっていながらも、死を潔く(いさぎよく)受け入れられるほど強くもなければ、清いわけでもない、人間の弱さを表現しました。
そして、そのあと
人々の嘆き(なげき)は天に届くのだろうか…
刹那(せつな)はこの現代に姿を変えて、どこへ辿り着くのだろうか…
という事を歌っています。
そして、最後に
激しい荒波と怖いほどの静寂を繰り返して、今を越えて行けるだろうか…
という部分があります。
これは、"荒波"というのは"争い"を例えています。"静寂"というのは、"平和"を意味しています。しかし、"嵐の前の静けさ"とはよく言ったもので、また争いを繰り返してしまいそうな、そんな静けささえ感じていながら、"今"を越えていけるのだろうかという事を問いかけています。
そして最後に、人類が犯した数多(あまた)=多く の罪たちも、愚かささえ、すべて消えゆくだろうかという言葉で終わります。これが懺悔の意味です。
人間の犯している罪…
植物をいただき、動物をいただき、自然を破壊して建物を建て、ゴミを出し、戦争を繰り返し、争いを繰り返し、空気を汚し、水を汚し、いくつの罪を、懺悔しなければならないのか…
しかし、今の時代を生きてゆくには、しょうがないことでもあります。
だからこそ、せめて、その事に気付き、その事を認め、懺悔する事から、始まるのではないかと、そう思ったのです。
懺悔する事で、次の希望が見えてくれば…
気付いたら、そんな歌詞が出来上がっていました。
書き始めてほんの一時間ほどの出来事でした。
自分でもなぜこんな歌詞を書いてしまったのか、はっきり覚えていませんし、この様な歌詞を書こうと思っていた訳でもありません。
書き終わったあとに、タイトルを決めようと思った時、あぁ、これは"懺悔"なんだなぁと、自分自身に気付かされ、あらためて、最後にタイトルを決めさせていただきました。決して押し付けや重たい意味はありません。
これから、この曲を聴いてくださったみなさんが、なんだか、懺悔できたような気持ちになって、「よし明日からがんばろう」と、ただそんな気持ちになっていただけたら嬉しいなと、そんな思いだけです。
前向きに生きるために、過去を認め、過去を受け入れ、過去を反省する事で、進歩のある未来に向かえる事を信じて…
みなさんの心に、愛が届きますように…
僕の懺悔が、天に届きますように…
いつも、応援してくださるみなさん、本当にありがとうございます。これからも、心を込めて、一生懸命歌います。
EXILE ATSUSHI
いつも応援していただいている皆様、本当にありがとうございます。
このたび、素晴らしい音楽家である久石譲さんとのコラボレーションが実現した事で、自分的にも、ものすごく深い想いの詰まった作品が"懺悔"が完成いたしました。
曲の特徴や雰囲気を出すために、所々、難しい言葉や昔の言葉を少し部分的に使っている箇所もありますので、もし聴いていただく皆様に分かりにくかったらと思い、余計なお世話ではありますが、曲のガイド的な意味を込めた文章を作らせていただいたので、興味のある方は是非読んでいただけたら嬉しく思います。
~『懺悔』EXILE ATSUSHI楽曲解説~
"懺悔"(ざんげ)とは、ご存知の通り、自分の犯した罪を悔い改め、神様や仏様にそれを正直に打ち明け、反省することを意味します。
今回、なぜこんな言葉を使うことになったのか、それにはこんな想いがありました。
日本テレビ開局60周年の特別企画として、特別展「京都―洛中洛外図と障壁画の美」が開催され、そこで"洛中洛外図屏風 舟木本"という、約400年前に作られたとされる屏風(びょうぶ)が公開されることになりました。
その特別展のテーマ曲を、久石譲さんと一緒に制作するというお話をいただき、こんな光栄なことはないと、ひときわ感動し、恐縮しながらも、今回のお仕事を受けさせていただきました。
そして初めて、久石譲さんとお会いさせていただき、感動し、あらためて尊敬し、せっかく一緒に何かを作るんだから、一緒にその"洛中洛外図屏風 舟木本"を観に行きましょうと約束をさせていただきました。
そして数日後、上野の東京国立博物館で久石譲さんと二度目の再会。
国の重要文化財である"洛中洛外図屏風 舟木本"を、手で触れられるくらいの、本当に間近な距離で拝見する事ができました。
正直、本物を目の前にするまで、どんな意味があって、何がすごいのかなんてまったく分かりませんでした。
でも本物を目の前にした時、何かただならぬ、存在感みたいなものを感じました。
全長7メートルに渡る、壁一面に広げられていた屏風(びょうぶ)は、一言で美しいというよりも、繊細で細かく、その世界に引き込まれるといったらいいのでしょうか。そんな感じを受けました。
そして、その風俗画が書かれた時代にタイムスリップするかのように、見れば見るほど、その屏風の世界の中に引き込まれていきました。
そして、ガイドをして頂いた東京国立博物館の松嶋先生の説明を聞きながら、質問をしつつ見ていくと、たくさんの事に気付かされました。
まず右側に豊臣家、左側に徳川家が描いてあって、日本では昔から歌舞伎の世界でも、舞台に向かって右側を上手(かみて)と呼び、明らかに豊臣家側の人間が描いたものだと推測できるというのです。もしくは、豊臣家よりの人間の発注を受けて、描いたとされているらしく、それだけでも、ものすごい日本の芸術美の奥ゆかしさ、深さ、素晴らしさを感じました。しかし、感動はそこでは終わりませんでした。一つ一つの絵に、すべて意味があり、当時の人々の生活模様が、現代の人間が見ても分かるほどに、細かく描写されていました。
季節は右から左に、春から冬に移り変わっていて、それを金の雲みたいなものが、時間軸や位置関係をワザと曖昧にしていたりと、それはそれは、知れば知るほど興味深いものばかりでした。
お花見で酔っ払いながら帰る幸せそうな光景が描かれていたり、祭りで勢いよく神輿を担ぐ男たちが描かれていたり、子供に手を引かれるのに、不倫しに行こうとする女性の絵が描かれていたり。(笑)本来、ケンカがあれば、止めるはずのお坊さんたちが、ケンカにヤジを飛ばし、はやしたてている場面が描かれていたり、町の呉服屋さん(今の洋服屋さん)が描かれていたり…。
その中で一つ、最も印象深いものがありました。
それは、橋の両サイドに牛馬止めという柵が描かれていて、その柵によって本来なら入る事のできない橋の上に、なぜか牛がいるという幻想的な風景で、その橋から、川を淋しそうに眺める家族の姿が描かれています。これは、空想の世界が描かれているという説があるらしく、その家族の絵は、この絵の作者が、命を亡くした自分の家族を描いているという説があるとの事でした。
この屏風も、偉い方か誰かが、何かを意図して発注したものであり、そこには意味があり、想いがある。逆に言えば、想いや意図なくして芸術はなにも生まれないという事に気づかされました。
それが懺悔の歌の始まりの歌詞です。
そうやって先人の方々が、芸術や宗教、武道などの道の付くものなど、様々なものに想いを託して、残してくれているのではないかと思ったのです。
そして、現代に失いかけている大切なモノを気付かせるヒントを残してくれているのではないかと思ったのです。
便利になった世の中で、心や愛を失ってしまった人が増えているような感覚に襲われる事があります。それは、僕たちや先人の方々の魂さえも腐らせると思ったのです。そんな中でも、いつか人間は必ず気づくはずだから、どうかかすかな光を照らし続けてほしいという希望を込めています。
サビの部分で
響き渡る篳篥(ひちりき)のしらべたち
遥か彼方 消えてしまったのだろうか…
とあります。
洛中洛外図屏風をみて、どこかから、篳篥の音が聴こえてくるようでした。篳篥とは、日本古来から伝わる雅楽の楽器の、いわゆる笛の一種ですが、昔、音楽を奏でた人々の想い、例えば平和への願いは、どこかに消えていってしまったのだろうかと、儚い想いをつづらせていただきました。
そして二番では、時は無情に過ぎてゆくけど、それは決して繰り返しではなく、バネの様に、螺旋状(らせんじょう)に過ぎていくことの美しさを表現しています。
同じ瞬間は二度と訪れないからこそ、瞬間、瞬間が美しいんだと思いました。
そして、迫り来る終わりをただ静かに迎えようと…
という部分がありますが、死に向かっているのは人の定めだと分かっていながらも、死を潔く(いさぎよく)受け入れられるほど強くもなければ、清いわけでもない、人間の弱さを表現しました。
そして、そのあと
人々の嘆き(なげき)は天に届くのだろうか…
刹那(せつな)はこの現代に姿を変えて、どこへ辿り着くのだろうか…
という事を歌っています。
そして、最後に
激しい荒波と怖いほどの静寂を繰り返して、今を越えて行けるだろうか…
という部分があります。
これは、"荒波"というのは"争い"を例えています。"静寂"というのは、"平和"を意味しています。しかし、"嵐の前の静けさ"とはよく言ったもので、また争いを繰り返してしまいそうな、そんな静けささえ感じていながら、"今"を越えていけるのだろうかという事を問いかけています。
そして最後に、人類が犯した数多(あまた)=多く の罪たちも、愚かささえ、すべて消えゆくだろうかという言葉で終わります。これが懺悔の意味です。
人間の犯している罪…
植物をいただき、動物をいただき、自然を破壊して建物を建て、ゴミを出し、戦争を繰り返し、争いを繰り返し、空気を汚し、水を汚し、いくつの罪を、懺悔しなければならないのか…
しかし、今の時代を生きてゆくには、しょうがないことでもあります。
だからこそ、せめて、その事に気付き、その事を認め、懺悔する事から、始まるのではないかと、そう思ったのです。
懺悔する事で、次の希望が見えてくれば…
気付いたら、そんな歌詞が出来上がっていました。
書き始めてほんの一時間ほどの出来事でした。
自分でもなぜこんな歌詞を書いてしまったのか、はっきり覚えていませんし、この様な歌詞を書こうと思っていた訳でもありません。
書き終わったあとに、タイトルを決めようと思った時、あぁ、これは"懺悔"なんだなぁと、自分自身に気付かされ、あらためて、最後にタイトルを決めさせていただきました。決して押し付けや重たい意味はありません。
これから、この曲を聴いてくださったみなさんが、なんだか、懺悔できたような気持ちになって、「よし明日からがんばろう」と、ただそんな気持ちになっていただけたら嬉しいなと、そんな思いだけです。
前向きに生きるために、過去を認め、過去を受け入れ、過去を反省する事で、進歩のある未来に向かえる事を信じて…
みなさんの心に、愛が届きますように…
僕の懺悔が、天に届きますように…
いつも、応援してくださるみなさん、本当にありがとうございます。これからも、心を込めて、一生懸命歌います。
EXILE ATSUSHI